人権コラム

  • 2022年02月01日
    言葉にこだわる

 コロナ禍になって以降、人と接する機会が格段に減った。仕事上も同様で、対面で紙の名刺を交換する機会も減り、名刺の使用量も激減した。人と接しなければできない仕事をしている人々も、マスクをしての会話が常態になり、その接し方の質は変わってきているだろう。表情などを読み取れないマスクを介しての言語コミュニケーションはなかなか難しいが、逆に言えば、言語それ自体の比重が相対的に高まってきているとも言えるだろう。

 言語の基本要素である言葉について考えることが多い。人は言葉によって自ら考え、また他者とやりとりをする。そこにイントネーションなどの感覚的な要素が影響したとしても、言葉そのものは極めて重要だ。
 しかし、言葉はやっかいでもある。それに頼らざるをえない反面、感覚的な要素以前のこととして、言葉そのものの受け止め方、理解の仕方が人によって微妙に、あるいはまったくずれている場合は多い。そして、翻訳語ではこのことがより顕著に表れる。

 例えばSDGsはどうだろう。「持続可能な開発目標」と日本では翻訳される場合が多い。しかしdevelopmentを「開発」と訳すか「発展」と訳すかという議論はかなり以前から存在する。例えば、外からの力で「開発する」という他動詞的なニュアンスよりも、自ら「発展する」という自動詞的なニュアンスのほうがもともとの趣旨に合致している、といったさまざまな議論がある。そもそも「開発」をめぐる前世紀からの国連等での議論の経過も背景にあるとされる。それほど遠い過去ではない2010年のISO26000でも、「持続可能な開発」ではなく「持続可能な発展」と翻訳され、語られることが多かった。

 人権についてはどうだろう。人権は、誰もが人として当然に認められる具体的な権利や自由の集まりで、だからhuman rightsのrightは複数形になっている。このrightは「権利」と訳されるが、rightにはそもそも「正しい」「当然の」「当たり前の」といった意味がある。明治期の先人は工夫を重ねてさまざまな翻訳語を創り出したが、その際、もとの言語の意味内容を日本語で適切に伝えることに非常な苦労があったとされる。「権理」という翻訳語が存在したこともよく知られている。

 「利」は必ずしもネガティブに受け取る必要はないだろう。企業活動においても、適切な「利益」は持続的な経営にとってとても重要なものだ。しかし他方、「利」は「利己主義」の「利」であったりもする。「権利」を逆に読めば「利権」である。「権利」にネガティブなイメージを持っている人々が存在することも容易に推測できる。ある老舗企業は社訓に「先義後利」を掲げてお客様を大切にすることを謳っているが、そこでは「利」よりも「義」が優先されている。

 自身で考える際、また人とのやりとりにも欠かせない大切な「言葉」だからこそ、とくに翻訳語の場合は、可能な限り原語にさかのぼって丁寧に使いたい。

一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター 特任研究員
松岡 秀紀

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